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2008年11月17日月曜日

1933年のウォール・ストリート

大統領就任式の前日、トーマス・ラモントは旧友のフランクリン・D・ルーズベルトに電話した。ラモントの電話の狙いは金融危機に関して余り性急な政策に走らないようにルーズベルトに嘆願することだった。その夜は金曜日でニューヨークに本社を構える主要銀行の多くはなんとか翌日の「はんどん」を無事やりすごすことが出来るのではないかと願っていた。

月曜まで持ちこたえられれば、、、、新大統領の就任演説に力を得た国民は安心し、取り付けの危機は回避できる、、、。

しかしルーズベルトは当然のこととしてこのアドバイスを無視した。彼が大統領になって最初にしたのは4日間に渡る「銀行休業日」宣言だ。実際には銀行は4日間ではなく8日間休業する羽目になった。ラモントの期待していたのはルーズベルトと、彼がこれから発表するであろう「ニュー・ディール」政策への期待で何とか市場への信頼が戻ることだった。いささか奇妙だったのは「ニュー・ディール」政策の立案者たちは駄目もとでそれを考案したにもかかわらず、ウォール街は早くも「ニュー・ディール」に高い期待を寄せていた点である。

ウォール街は兎に角、いまの苦境からひっぱり上げてくれる救世主を求めていた。ここから出してくれるのなら、その救世主がどんな主義・主張をもっていようがそんなことにはこだわらないという気分になっていたのである。この盲信的な態度はルーズベルト政権の「称賛の100日間(Celebrated first one hundred days)」の間中続いた。そしてこの期間に新政権はスリルに満ちた前例の無い大胆な政策を次々打ち出したのである。工業復興法案、農業調整法案、テネシー川流域再開発局、連邦持ち家法案、農家信用法案など、様々な法案が下院に送られた。さらに銀行と証券の分離を定めた証券取引法もこのときに成立している。神聖なるモルガン銀行はこの法律によって銀行と証券に分断されるわけだが、通常ならウォール街の猛反発を喰らいそうなそんな法律までもが歓迎されたのである。

8日間の休場の後、3月15日にニューヨーク証券取引所がリチャード・ウィットニーの市場再開の宣言とともに立会いを開始した際には大引けまでにマーケットは15%も暴騰した。こんな強気相場はブームの真っ只中だった1920年代を通じても一度も無かったことである。場立ち連中は早くも「ルーズベルト相場」ということを言い始めた。この「ルーズベルト相場」というのはもちろん、1920年代の「クーリッジ相場」をもじった表現なのだが、その後は週をおうごとに1920年代のブーム時代が戻ってきたような共通点が幾つも至現した。4月20日には過去3年で最高の出来高となり、ティッカーは大幅に遅延した。証券会社は慌てて秘書や伝令や事務方の社員を再雇用し、ウォール街は再びブームを取り戻したように見えた。この伝染しやすい楽観論の出所はルーズベルト新大統領に他ならない。そのルーズベルト大統領は側近のひとりの言葉を借りれば「お伽話の王子様のように、一体、怯えるというしぐさはどうすればよいのか知らないと言わんばかりに自信に満ちていた。」

こうして7月までには株式市場は就任演説の日から2倍に上昇していたのである。4ヶ月間での上昇率という点では勿論、これは新記録である。


(『Once in Golconda』 Chapter Seven: Gold Standard on the Booze P148-150)


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