ブラジル社会の多様性
ブラジルの社会を語るとき先ず最初に指摘されるのはその多様性です。ブラジルにはサンパウロやリオ・デ・ジェネイロのように世界でも屈指の大都会があります。ブラジルの国民の約8割はそうした都会に生活しています。その一方でブラジルにはアマゾンに代表される大自然があり、昔ながらの生活をする原住民も存在します。
ブラジルの貧困問題
ブラジルは植民地時代の名残である階層化された社会を受け継ぎました。そのため現在でも同国は世界で最も貧富の差が激しい国のひとつとなっています。1990年の統計によると極度の貧困層と分類される人口は約3200万人にのぼり、過疎地人口の43%、地方都市人口の18%、大都市人口の10%がこの極貧層に属します。社会的・経済的不平等は住居、環境、教育などあらゆる面で見えない壁を作っており、一般に違う階層の人間が交流する機会は少ないと言えます。例えば高所得者層は瀟洒な住宅地に住み、私立の学校に子供を通わせ、自家用車を持ち、ショッピング・モールで買い物をします。一方、都市に住む貧困層はファヴェーラス(favelas)と呼ばれるスラムに住んでいます。彼らの暮らしを上流階級の人達が目にすることは普段は無いと言われています。
ブラジルの人口動態
ブラジルの総人口は約1.8億人です。ブラジルの人口増加率は1960年代~70年代の軍事政権の時代に年間平均人口増加率が3%を超える高成長を記録しました。これはブラジル経済の高度の工業化ならびに都市化の進行が背景にあります。現在は出生率は低下しており、人口ピラミッドは現在の三角形型から将来はだんだん高齢化のパターンを示してゆくと予想されます。ブラジル人の平均寿命は男性が約68歳、女性が75歳です。また、ブラジルの乳児死亡率は中国と同じで1000人につき27人です。
ブラジル国民の混血化
ブラジルは1500年代にポルトガルの植民地として移住が始まりました。従って人種的には入植者であるポルトガル人、先住民、そしてプランテーションの開発の為にアフリカから連れて来られた黒人などから構成されています。白人のことをブランカ、黒人のことをプレタ、先住民のことをインディジナと呼んでいます。しかし、時代とともにパルダと呼ばれる混血者が増えました。また、日本からの移住者のような黄色人種系はアマレーラと呼ばれています。1999年の時点ではブランカは全体の約54%、プレタは5.4%、パルダは約40%を占めています。アマレーラとインディジナはそれぞれ1%以下です。
教育、宗教、治安など
ブラジルの識字率は88%です。同国では原則義務教育なのですが家庭の経済状況などの理由で実際には低所得者層を中心に退学率は高いです。ブラジルのカトリック教徒は人口の約74%を占めています。その関係もあり離婚が正式に合法化されたのは1977年です。また、女性が憲法上男性と完全に平等に扱われるようになったのは1988年からです。ブラジル人は一般に寛容で和を尊びます。また礼儀正しく、なるべく対立を避けることを選びます。その反面、個人主義的で他人より自分を優先する考えの人も多く、公共心に欠けているとも言われます。またルール厳守の意識は低いです。さらに都市部での治安が悪い点も付け加えておくべきでしょう。
2009年10月2日金曜日
ブラジルの基礎 その3 【過去記事の再録】
ブラジルの政治
ブラジルは1891年には既に米国の合衆国憲法に倣った憲法を持ち、民主主義を実施していました。しかし、その後の同国のデモクラシーの歩みは順調とは言えません。例えば1964年4月からはほぼ20年にわたる軍事政権が続きましたし、民政に戻った後、最初に公選により大統領に就任したコロル大統領は2年あまりで汚職疑惑で降板しました。しかし、カルドソ政権以降はブラジルの政治は安定度を増しており、民主主義もしっかり根付いてきた観があります。
コロネリズモ
ブラジルのデモクラシーへの道のりが平坦で無かった理由として、同国固有の国民性、社会の発展の経緯などが指摘されています。その代表的なものはコロネリズモでしょう。コロネリズモ(coronelismo)とは大地主などの地元有力者が政治の実権を握ることを指します。ブラジルでは伝統的に地元有力者が農民や労働者からの支持と引き換えに公共工事を地元に引っ張ってきたり、地方の役職に支持者を優先的に任命するなどということが行なわれてきました。これが大土地所有制と結びつくことによりブラジルのデモクラシーを歪めてきました。最近では都市への人口流出により地方との結びつきが疎遠なブラジル人が増えました。その影響でコロネリズモは弱まりつつあります。しかし汚職体質というのはこんにちのブラジルの政界にも根強く残っており、汚職疑惑が投資家の心理を逆撫でするという局面は最近でもしばしば見られます。
ポピュリズモ
貧困層の人気取りを目指した政治のことをポピュリズモ(populismo)と呼びます。ポピュリズモは何もブラジルに限ったことではありません。事実、最近はラテン・アメリカ諸国全体にポピュリズモの風潮が強まっています。このトレンドを作ったのはベネズエラのウゴ・チャべス大統領です。チャべス大統領は石油輸出から得られる収入を貧困層にばら撒く政策で低所得者層の歓心を買っています。その行為自体の是非は簡単には白黒決し難い面もありますが、貧富の差をなくすという美辞麗句の裏で民主主義の後退や腐敗の進行を心配する声もあります。また、米国やEUが提唱してきた自由貿易の振興という価値観に真っ向から反対する風潮も出てきています。
ポピュリズモ流行の背景
そうしたトレンドの背景にはラテン・アメリカ諸国の多くが過去15年近くにも渡ってIMFなどの提唱する経済政策(これを「ワシントン・コンセンサス」と呼びます)に従って経済運営してきたのにもかかわらず、経済が余り良くならなかった点が指摘されます。実際、ブラジルとメキシコの場合、1940年から1980年までの平均GDP成長率は約6%でしたが、1980年から2000年までの平均はその半分にも満たなかったのです。また、ラテン・アメリカ諸国は世界でも最も富の不平等が激しい地域です。そのため、富はもとより雇用機会や社会的な発言力などの点でもごく一部の特権階級にそれらのパワーが集中しており、それが選挙の時に必然的に数の上では圧倒的多数派である大衆寄り、ないしは左寄りの姿勢を打ち出さないと選挙に勝てないという状況を生むのです。ラテン・アメリカ諸国は昔から「ご近所さん」に影響されやすいという傾向があります。従ってべネズエラで人気を博したチャべス大統領のポピュリズモは今、ボリビアなどの近隣諸国に広がっています。特にボリビアのモラレス新大統領は就任早々、資源企業の国有化や外資の締め出し政策などを打ち出し、国際機関投資家を震撼させました。
ブラジルの左派
ポピュリズモはブラジルにも伝統的に存在してきました。また、ブラジルのルラ大統領は労働者党の党首ですから当然貧困層の味方です。しかしこと最近のポピュリズモの流行との絡みで言えば「ブラジルをその他のラテン・アメリカ諸国のポピュリズモと一緒にしないで欲しい」という感じで一線を画しています。つまり貧困層には同情的な政府ではありますが、「国家予算の健全性を損ねる政策や民主主義の後退を招くような政策には走らない」という気概が感じられます。このへんのニュアンスの違いを整理すると下のようになります。
【ブラジルとチリの左派の特色】
主に旧ソ連をロール・モデルとしている。改革的、進歩的、開かれた経済を目指している。
【ベネズエラ、ボリビアの左派の特色】
キューバをロール・モデルとしている。国粋主義的、地域孤立主義的であり、閉じた経済ブロックを目指している。
ブラジルやチリの左派はソ連をロール・モデルとしました。勿論、今やソ連は存在しないわけですからこれらの国はソ連の失敗の教訓に学び、ちょうどフランスなどに見られるようなバランス感覚のある左派勢力が主流となっています。この反面、ベネズエラやボリビアはフィデル・カストロのキューバ革命に触発された面が大きいので反米的な傾向が顕著なわけです。
ブラジル株式市場と大統領選挙
2010年はブラジルにとって大統領選挙の年です。ブラジルでは大統領選挙のある年は「厄年」です。というのも過去4回大統領選挙のあった年はブラジルの株式市場はいずれも春先に天井を打ち、その後、高値から4割とか5割近い下落を見ているからです。これは投資家が不確実性を嫌うことが原因です。しかし、もう少し丁寧にその原因を分析すると、折角、IMF主導のワシントン・コンセンサスに基づいた経済政策を政府が採用しているのに、「選挙で新しく当選した候補者がそのコミットメントを反故にしたらどうしよう?」という事を欧米の投資家が極端に恐れているのが原因だと考えられます。実際、現大統領であるルラが当選した時は彼の支持母体が労働者党であるということからブラジルの政治が左寄りに急転回することを投資家は大変心配しました。結果的にはルラ大統領はカルドソ政権の敷いた手堅い経済政策を注意深く踏襲しました。
このシリーズは2006年7月に楽天証券の『ADRを利用したBRICs投資』に掲載された過去記事を一部手直しし、再録したものです。
ブラジルは1891年には既に米国の合衆国憲法に倣った憲法を持ち、民主主義を実施していました。しかし、その後の同国のデモクラシーの歩みは順調とは言えません。例えば1964年4月からはほぼ20年にわたる軍事政権が続きましたし、民政に戻った後、最初に公選により大統領に就任したコロル大統領は2年あまりで汚職疑惑で降板しました。しかし、カルドソ政権以降はブラジルの政治は安定度を増しており、民主主義もしっかり根付いてきた観があります。
コロネリズモ
ブラジルのデモクラシーへの道のりが平坦で無かった理由として、同国固有の国民性、社会の発展の経緯などが指摘されています。その代表的なものはコロネリズモでしょう。コロネリズモ(coronelismo)とは大地主などの地元有力者が政治の実権を握ることを指します。ブラジルでは伝統的に地元有力者が農民や労働者からの支持と引き換えに公共工事を地元に引っ張ってきたり、地方の役職に支持者を優先的に任命するなどということが行なわれてきました。これが大土地所有制と結びつくことによりブラジルのデモクラシーを歪めてきました。最近では都市への人口流出により地方との結びつきが疎遠なブラジル人が増えました。その影響でコロネリズモは弱まりつつあります。しかし汚職体質というのはこんにちのブラジルの政界にも根強く残っており、汚職疑惑が投資家の心理を逆撫でするという局面は最近でもしばしば見られます。
ポピュリズモ
貧困層の人気取りを目指した政治のことをポピュリズモ(populismo)と呼びます。ポピュリズモは何もブラジルに限ったことではありません。事実、最近はラテン・アメリカ諸国全体にポピュリズモの風潮が強まっています。このトレンドを作ったのはベネズエラのウゴ・チャべス大統領です。チャべス大統領は石油輸出から得られる収入を貧困層にばら撒く政策で低所得者層の歓心を買っています。その行為自体の是非は簡単には白黒決し難い面もありますが、貧富の差をなくすという美辞麗句の裏で民主主義の後退や腐敗の進行を心配する声もあります。また、米国やEUが提唱してきた自由貿易の振興という価値観に真っ向から反対する風潮も出てきています。
ポピュリズモ流行の背景
そうしたトレンドの背景にはラテン・アメリカ諸国の多くが過去15年近くにも渡ってIMFなどの提唱する経済政策(これを「ワシントン・コンセンサス」と呼びます)に従って経済運営してきたのにもかかわらず、経済が余り良くならなかった点が指摘されます。実際、ブラジルとメキシコの場合、1940年から1980年までの平均GDP成長率は約6%でしたが、1980年から2000年までの平均はその半分にも満たなかったのです。また、ラテン・アメリカ諸国は世界でも最も富の不平等が激しい地域です。そのため、富はもとより雇用機会や社会的な発言力などの点でもごく一部の特権階級にそれらのパワーが集中しており、それが選挙の時に必然的に数の上では圧倒的多数派である大衆寄り、ないしは左寄りの姿勢を打ち出さないと選挙に勝てないという状況を生むのです。ラテン・アメリカ諸国は昔から「ご近所さん」に影響されやすいという傾向があります。従ってべネズエラで人気を博したチャべス大統領のポピュリズモは今、ボリビアなどの近隣諸国に広がっています。特にボリビアのモラレス新大統領は就任早々、資源企業の国有化や外資の締め出し政策などを打ち出し、国際機関投資家を震撼させました。
ブラジルの左派
ポピュリズモはブラジルにも伝統的に存在してきました。また、ブラジルのルラ大統領は労働者党の党首ですから当然貧困層の味方です。しかしこと最近のポピュリズモの流行との絡みで言えば「ブラジルをその他のラテン・アメリカ諸国のポピュリズモと一緒にしないで欲しい」という感じで一線を画しています。つまり貧困層には同情的な政府ではありますが、「国家予算の健全性を損ねる政策や民主主義の後退を招くような政策には走らない」という気概が感じられます。このへんのニュアンスの違いを整理すると下のようになります。
【ブラジルとチリの左派の特色】
主に旧ソ連をロール・モデルとしている。改革的、進歩的、開かれた経済を目指している。
【ベネズエラ、ボリビアの左派の特色】
キューバをロール・モデルとしている。国粋主義的、地域孤立主義的であり、閉じた経済ブロックを目指している。
ブラジルやチリの左派はソ連をロール・モデルとしました。勿論、今やソ連は存在しないわけですからこれらの国はソ連の失敗の教訓に学び、ちょうどフランスなどに見られるようなバランス感覚のある左派勢力が主流となっています。この反面、ベネズエラやボリビアはフィデル・カストロのキューバ革命に触発された面が大きいので反米的な傾向が顕著なわけです。
ブラジル株式市場と大統領選挙
2010年はブラジルにとって大統領選挙の年です。ブラジルでは大統領選挙のある年は「厄年」です。というのも過去4回大統領選挙のあった年はブラジルの株式市場はいずれも春先に天井を打ち、その後、高値から4割とか5割近い下落を見ているからです。これは投資家が不確実性を嫌うことが原因です。しかし、もう少し丁寧にその原因を分析すると、折角、IMF主導のワシントン・コンセンサスに基づいた経済政策を政府が採用しているのに、「選挙で新しく当選した候補者がそのコミットメントを反故にしたらどうしよう?」という事を欧米の投資家が極端に恐れているのが原因だと考えられます。実際、現大統領であるルラが当選した時は彼の支持母体が労働者党であるということからブラジルの政治が左寄りに急転回することを投資家は大変心配しました。結果的にはルラ大統領はカルドソ政権の敷いた手堅い経済政策を注意深く踏襲しました。
このシリーズは2006年7月に楽天証券の『ADRを利用したBRICs投資』に掲載された過去記事を一部手直しし、再録したものです。
2009年9月29日火曜日
ブラジルの基礎 その2 【過去記事の再録】
ブラジルはポルトガルの植民地だった
1494年にスペインとポルトガルの間で取り決められたトルデシリャス協定(Treaty of Tordesillas)によりポルトガルはブラジルを植民地として領有することを認められました。ポルトガルは最初にブラジルに進出した際、金鉱脈を発見することを期待していたのですがあいにく金鉱脈は発見できませんでした。そこで赤い染料が取れるパウ・ブラジルの木を伐採して、それをフランダース地方などへ輸出することを始めました。ブラジルという国名はこのブラジルの木に由来しています。
サトウキビ時代
1530年代に入るとサトウキビのプランテーションが始まりました。このプランテーションにおける労働力の確保の為にポルトガルはアフリカから黒人の奴隷を連れて来るようになりました。大土地所有制度の起源となったセズマリア(sesmaria)制度が出来たのはこの頃です。さらにサトウキビ畑の耕作・運搬作業などの為に牛が輸入され、後のブラジルの牧畜業のはしりとなります。しかしライバルのオランダがカリブ海地方でサトウキビの栽培をはじめた為、ブラジルのサトウキビ産業は1600年代半ばまでには衰退しました。ブラジルはサトウキビのプランテーションの衰退を補うため牧畜業に力を入れました。
金の時代
1700年代初頭にミナス・ジェライス地方で金鉱脈が発見され、鉱山開発の時代が始まりました。しかし、ブラジルの金生産は1750年頃には早くも衰退しはじめます。この後、ブラジルは50年ちかい経済停滞期を迎えます。この時期ポルトガルはブラジルにおける製造業を禁止した為、製造業は発達しませんでした。
ポルトガル王室の「遷都」
1808年にナポレオン戦争を避けるためポルトガルの王室はブラジルに避難します。ブラジルに移ったポルトガル王室は英国寄りの外交政策を採るようになり、英国のアドバイスに従って広く世界と交易する方針に改めると同時に製造業の禁止を解きました。1850年には黒人奴隷貿易の禁止が決められました。
コーヒー豆の時代
コーヒーがブラジルにもたらされたのは1700年代初頭ですが、大々的に栽培されはじめたのは国際市況が上昇した1820年代以降のことです。コーヒー栽培は手間がかかります。また、黒人奴隷貿易が禁止されたこともあり、国内の余剰労働力はコーヒー栽培によって吸収されました。その意味でもコーヒーの輸出はサトウキビや金生産より遥かに大きな影響をブラジル経済に与えたと言えます。
世界恐慌の時代
1930年代、世界恐慌が始まるとコーヒーの価格が暴落し、ブラジルも利払いの停止を発表せざるを得ませんでした。1930年にクーデターにより登場したジェツリオ・ヴァルガスは第二次世界大戦の暗雲が世界を覆う中、1891年に米国憲法を模倣して制定された憲法を排し、政党を解散するなどし、独裁体制を敷きます。
戦後の輸入代替工業化時代
第二次世界大戦後のブラジルは戦時中に蓄えた外貨をもとに貿易に関する規制を撤廃します。しかし、当時のブラジルの通貨、クルセイロ(Cr$)が経済の実勢より割高に設定された為(当時は固定相場制)、輸出の不振を招き貿易収支が悪化しました。ブラジル政府はそこで通貨を切り下げるのではく輸入ライセンス制度による輸入の抑制に踏み切り、石油や工作機械など経済政策上優先順位の高い商品だけ輸入を許し、消費財は輸入できないようにしました。これによりブラジルの製造業がはじめてテイク・オフしたわけです。ブラジル政府はこれを見てブラジル経済の構造をこれまでの第一次産業中心の経済から工業中心の経済に移行することを目標にします。このように為替レートや輸入ライセンス制度により国内に製造業を根付かせるやり方を「輸入代替工業化」と呼びます。このやり方の問題点は輸出の不振から貿易収支の悪化を招くことです。このためブラジルは戦略的に重要な輸入品目とそれ以外の品目では違った為替レートを適用するなど、苦しまぎれの政策を始めます。
軍事政権下での経済
1964年のクーデターでブラジルは軍政下に置かれます。軍事政権は為替制度の簡素化、インフレを加味した定期的な為替相場の切り下げ、直接投資の奨励、外資の誘致、輸出の奨励などを打ち出します。これらが功を奏して1968年から1973年までは年率平均11.1%という高度成長の時代が到来します。工業セクターは年率平均13.1%で成長し、鉄鋼、セメント、発電、自動車、耐久消費財などの産業が大きく開花しました。
オイルショック
軍事政権下でのブラジルは確かに急成長を遂げ、加工品、原材料などの輸出も好調でしたが、それにも増して輸入が急増しました。貿易収支は悪化を辿ります。この帳尻を合わせたのが海外投資家からの資本投資でした。1973年のオイル・ショックの際には石油の輸入価格が高騰し、貿易収支は一挙に悪化しました。ブラジルは過大評価されていたクルセイロを切り下げるのではなく、輸入代替工業化を一層押し進める事でこの難局を乗り切ろうとします。鉄工所やアルミ精錬工場、化学プラントなどを次々に作り、これらの商品を国内で自給できる比率を高めました。この政策は短期的には成功でした。実際、1974年から1980年までのブラジルのGDP成長率は平均して6.9%であり、これはオイル・ショックに世界中が苦しんでいるときの成績としては上出来の数字です。しかし、経常赤字は1973年の17億ドルから1980年には128億ドルまで膨張しました。1979年のイラン革命による第二次オイル・ショックが引き起こした世界的なインフレで世界の金利水準は大幅に引き上げられ、借金の借り換えのコストの急増を招きました。
失われた10年
オイル・ショック後に世界を襲った不景気でブラジルの経済も「失われた10年」と呼ばれる長いスランプに陥ります。1981年から1992年までブラジルのGDP成長率は平均して1.4%にとどまりました。また1985年に軍政から民政に移行した頃から狂乱インフレが起こり、ブラジル政府は価格凍結、賃金の凍結、住宅ローンや家賃の凍結などの極端な改革を断行します。これらの改革で一時はインフレが押さえ込まれたかに見えたのですが、暫くするとまたインフレがぶり返しました。
コロル大統領の登場
軍政後最初の公選により大統領に選ばれたコロルは規制緩和や対外貿易の振興、政府支出の抑制など、先進国受けする一連の政策を掲げて経済の建て直しに乗り出しました。しかし、1992年には汚職疑惑から大統領を罷免されてしまいます。その後を継いだフランコ政権は暫定政権ということもあり実効ある成果は上げられませんでした。
カルドソ政権
しかしフランコ政権の良かった点は財務相にブラジルきってのインテリで知られるカルドソを起用した点です。カルドソはレアル・プランと呼ばれる経済安定化計画を発表します。その骨子は:
1.議会により均衡財政が義務付けられること
2.賃金、税金、金融資産などをインデックス(指標)化すること
3.ブラジル・リアル(R$)の導入
などです。均衡財政が義務付けられたことは公的部門のインフレ期待を駆逐する効果を上げました。インデックス化はいろいろな財やサービス間の相対価格を適正な水準に固定することを助けました。それらが定着した後、新通貨が導入されたわけです。その後、カルドソは1995年には大統領に就任しこの経済改革を継続します。
ルラ大統領の時代
2002年の大統領選挙では貧富の差を縮めることを公約した労働者党のルラ党首が勝利し海外の投資家は折角軌道に乗ったブラジルの経済がまた悪い方向へ向き始めるのではという懸念を抱きました。しかしルラ大統領はカルドソ政権の残した手堅い経済運営のやり方を注意深く踏襲し、現在に至っています。
1494年にスペインとポルトガルの間で取り決められたトルデシリャス協定(Treaty of Tordesillas)によりポルトガルはブラジルを植民地として領有することを認められました。ポルトガルは最初にブラジルに進出した際、金鉱脈を発見することを期待していたのですがあいにく金鉱脈は発見できませんでした。そこで赤い染料が取れるパウ・ブラジルの木を伐採して、それをフランダース地方などへ輸出することを始めました。ブラジルという国名はこのブラジルの木に由来しています。
サトウキビ時代
1530年代に入るとサトウキビのプランテーションが始まりました。このプランテーションにおける労働力の確保の為にポルトガルはアフリカから黒人の奴隷を連れて来るようになりました。大土地所有制度の起源となったセズマリア(sesmaria)制度が出来たのはこの頃です。さらにサトウキビ畑の耕作・運搬作業などの為に牛が輸入され、後のブラジルの牧畜業のはしりとなります。しかしライバルのオランダがカリブ海地方でサトウキビの栽培をはじめた為、ブラジルのサトウキビ産業は1600年代半ばまでには衰退しました。ブラジルはサトウキビのプランテーションの衰退を補うため牧畜業に力を入れました。
金の時代
1700年代初頭にミナス・ジェライス地方で金鉱脈が発見され、鉱山開発の時代が始まりました。しかし、ブラジルの金生産は1750年頃には早くも衰退しはじめます。この後、ブラジルは50年ちかい経済停滞期を迎えます。この時期ポルトガルはブラジルにおける製造業を禁止した為、製造業は発達しませんでした。
ポルトガル王室の「遷都」
1808年にナポレオン戦争を避けるためポルトガルの王室はブラジルに避難します。ブラジルに移ったポルトガル王室は英国寄りの外交政策を採るようになり、英国のアドバイスに従って広く世界と交易する方針に改めると同時に製造業の禁止を解きました。1850年には黒人奴隷貿易の禁止が決められました。
コーヒー豆の時代
コーヒーがブラジルにもたらされたのは1700年代初頭ですが、大々的に栽培されはじめたのは国際市況が上昇した1820年代以降のことです。コーヒー栽培は手間がかかります。また、黒人奴隷貿易が禁止されたこともあり、国内の余剰労働力はコーヒー栽培によって吸収されました。その意味でもコーヒーの輸出はサトウキビや金生産より遥かに大きな影響をブラジル経済に与えたと言えます。
世界恐慌の時代
1930年代、世界恐慌が始まるとコーヒーの価格が暴落し、ブラジルも利払いの停止を発表せざるを得ませんでした。1930年にクーデターにより登場したジェツリオ・ヴァルガスは第二次世界大戦の暗雲が世界を覆う中、1891年に米国憲法を模倣して制定された憲法を排し、政党を解散するなどし、独裁体制を敷きます。
戦後の輸入代替工業化時代
第二次世界大戦後のブラジルは戦時中に蓄えた外貨をもとに貿易に関する規制を撤廃します。しかし、当時のブラジルの通貨、クルセイロ(Cr$)が経済の実勢より割高に設定された為(当時は固定相場制)、輸出の不振を招き貿易収支が悪化しました。ブラジル政府はそこで通貨を切り下げるのではく輸入ライセンス制度による輸入の抑制に踏み切り、石油や工作機械など経済政策上優先順位の高い商品だけ輸入を許し、消費財は輸入できないようにしました。これによりブラジルの製造業がはじめてテイク・オフしたわけです。ブラジル政府はこれを見てブラジル経済の構造をこれまでの第一次産業中心の経済から工業中心の経済に移行することを目標にします。このように為替レートや輸入ライセンス制度により国内に製造業を根付かせるやり方を「輸入代替工業化」と呼びます。このやり方の問題点は輸出の不振から貿易収支の悪化を招くことです。このためブラジルは戦略的に重要な輸入品目とそれ以外の品目では違った為替レートを適用するなど、苦しまぎれの政策を始めます。
軍事政権下での経済
1964年のクーデターでブラジルは軍政下に置かれます。軍事政権は為替制度の簡素化、インフレを加味した定期的な為替相場の切り下げ、直接投資の奨励、外資の誘致、輸出の奨励などを打ち出します。これらが功を奏して1968年から1973年までは年率平均11.1%という高度成長の時代が到来します。工業セクターは年率平均13.1%で成長し、鉄鋼、セメント、発電、自動車、耐久消費財などの産業が大きく開花しました。
オイルショック
軍事政権下でのブラジルは確かに急成長を遂げ、加工品、原材料などの輸出も好調でしたが、それにも増して輸入が急増しました。貿易収支は悪化を辿ります。この帳尻を合わせたのが海外投資家からの資本投資でした。1973年のオイル・ショックの際には石油の輸入価格が高騰し、貿易収支は一挙に悪化しました。ブラジルは過大評価されていたクルセイロを切り下げるのではなく、輸入代替工業化を一層押し進める事でこの難局を乗り切ろうとします。鉄工所やアルミ精錬工場、化学プラントなどを次々に作り、これらの商品を国内で自給できる比率を高めました。この政策は短期的には成功でした。実際、1974年から1980年までのブラジルのGDP成長率は平均して6.9%であり、これはオイル・ショックに世界中が苦しんでいるときの成績としては上出来の数字です。しかし、経常赤字は1973年の17億ドルから1980年には128億ドルまで膨張しました。1979年のイラン革命による第二次オイル・ショックが引き起こした世界的なインフレで世界の金利水準は大幅に引き上げられ、借金の借り換えのコストの急増を招きました。
失われた10年
オイル・ショック後に世界を襲った不景気でブラジルの経済も「失われた10年」と呼ばれる長いスランプに陥ります。1981年から1992年までブラジルのGDP成長率は平均して1.4%にとどまりました。また1985年に軍政から民政に移行した頃から狂乱インフレが起こり、ブラジル政府は価格凍結、賃金の凍結、住宅ローンや家賃の凍結などの極端な改革を断行します。これらの改革で一時はインフレが押さえ込まれたかに見えたのですが、暫くするとまたインフレがぶり返しました。
コロル大統領の登場
軍政後最初の公選により大統領に選ばれたコロルは規制緩和や対外貿易の振興、政府支出の抑制など、先進国受けする一連の政策を掲げて経済の建て直しに乗り出しました。しかし、1992年には汚職疑惑から大統領を罷免されてしまいます。その後を継いだフランコ政権は暫定政権ということもあり実効ある成果は上げられませんでした。
カルドソ政権
しかしフランコ政権の良かった点は財務相にブラジルきってのインテリで知られるカルドソを起用した点です。カルドソはレアル・プランと呼ばれる経済安定化計画を発表します。その骨子は:
1.議会により均衡財政が義務付けられること
2.賃金、税金、金融資産などをインデックス(指標)化すること
3.ブラジル・リアル(R$)の導入
などです。均衡財政が義務付けられたことは公的部門のインフレ期待を駆逐する効果を上げました。インデックス化はいろいろな財やサービス間の相対価格を適正な水準に固定することを助けました。それらが定着した後、新通貨が導入されたわけです。その後、カルドソは1995年には大統領に就任しこの経済改革を継続します。
ルラ大統領の時代
2002年の大統領選挙では貧富の差を縮めることを公約した労働者党のルラ党首が勝利し海外の投資家は折角軌道に乗ったブラジルの経済がまた悪い方向へ向き始めるのではという懸念を抱きました。しかしルラ大統領はカルドソ政権の残した手堅い経済運営のやり方を注意深く踏襲し、現在に至っています。
ブラジルの基礎 その1 【過去記事の再録】
ブラジルのイントロダクションブラジルは国土の大きさではロシア、中国、米国、カナダに次いで世界で第5番目です。国土の9割が赤道と南回帰線の間に位置することから世界最大の熱帯の国であると言えます。
ブラジルは歴史的にポルトガルをはじめアフリカやイタリア、ドイツ、アラブ、日本など実にさまざまな国からの移民を受け入れてきました。その意味では人種のるつぼであるといえます。しかし、彼らはいずれもポルトガル語(識字率は88%)を話すブラジル人として共通のアイデンティティーを持つに至っています。(勿論、僻地に住むごく一部の先住民だけは例外ですが。)ブラジル人がこのように「ひとつの国民」、ないしは「ひとつの国家」として一体感を持っているというのは彼らの祖先の多様性を考えたとき、驚くべき事だと言えるでしょう。
一般にブラジル人は人好きのする開放的な性格だと言われています。2000年の国勢調査によるとブラジルの人口は1億6979万人で、世界で6番目に人口の多い国です。人口の74%がカトリック教徒であり、世界最大のカトリック国であるとも言えます。
さて、ブラジルの国民が共通の帰属意識を持っている反面、実際の人々の暮らしぶりを見ると経済的には裕福層と貧困層の間にたいへん大きな格差があります。そもそもラテン・アメリカの国々は貧富の差が激しいとろこが多いのですが、その中にあってもブラジルは特にひどい格差社会となっています。上のグラフは国連の「ヒューマン・デベロプメント・レポート 2004年」に収録された各国のジニ係数から主要国を抜粋したものです。
ジニ係数は所得分配の不平等の度合いを測る係数ですが、上のグラフの場合、100が「完全に不平等な社会」で、0が「完全に平等な社会」という風に読みます。ブラジルの59.1という指数は大変不平等な社会であることを示していて、実際、アフリカの一部の小国などを除くと世界で最も不平等な大国であると言えるでしょう。
このシリーズは2006年7月に楽天証券の『ADRを利用したBRICs投資』に掲載された過去記事を一部手直しし、再録したものです。
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