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2009年9月29日火曜日

ブラジルの基礎 その2 【過去記事の再録】

ブラジルはポルトガルの植民地だった
1494年にスペインとポルトガルの間で取り決められたトルデシリャス協定(Treaty of Tordesillas)によりポルトガルはブラジルを植民地として領有することを認められました。ポルトガルは最初にブラジルに進出した際、金鉱脈を発見することを期待していたのですがあいにく金鉱脈は発見できませんでした。そこで赤い染料が取れるパウ・ブラジルの木を伐採して、それをフランダース地方などへ輸出することを始めました。ブラジルという国名はこのブラジルの木に由来しています。

サトウキビ時代
1530年代に入るとサトウキビのプランテーションが始まりました。このプランテーションにおける労働力の確保の為にポルトガルはアフリカから黒人の奴隷を連れて来るようになりました。大土地所有制度の起源となったセズマリア(sesmaria)制度が出来たのはこの頃です。さらにサトウキビ畑の耕作・運搬作業などの為に牛が輸入され、後のブラジルの牧畜業のはしりとなります。しかしライバルのオランダがカリブ海地方でサトウキビの栽培をはじめた為、ブラジルのサトウキビ産業は1600年代半ばまでには衰退しました。ブラジルはサトウキビのプランテーションの衰退を補うため牧畜業に力を入れました。

金の時代
1700年代初頭にミナス・ジェライス地方で金鉱脈が発見され、鉱山開発の時代が始まりました。しかし、ブラジルの金生産は1750年頃には早くも衰退しはじめます。この後、ブラジルは50年ちかい経済停滞期を迎えます。この時期ポルトガルはブラジルにおける製造業を禁止した為、製造業は発達しませんでした。

ポルトガル王室の「遷都」
1808年にナポレオン戦争を避けるためポルトガルの王室はブラジルに避難します。ブラジルに移ったポルトガル王室は英国寄りの外交政策を採るようになり、英国のアドバイスに従って広く世界と交易する方針に改めると同時に製造業の禁止を解きました。1850年には黒人奴隷貿易の禁止が決められました。

コーヒー豆の時代
コーヒーがブラジルにもたらされたのは1700年代初頭ですが、大々的に栽培されはじめたのは国際市況が上昇した1820年代以降のことです。コーヒー栽培は手間がかかります。また、黒人奴隷貿易が禁止されたこともあり、国内の余剰労働力はコーヒー栽培によって吸収されました。その意味でもコーヒーの輸出はサトウキビや金生産より遥かに大きな影響をブラジル経済に与えたと言えます。

世界恐慌の時代
1930年代、世界恐慌が始まるとコーヒーの価格が暴落し、ブラジルも利払いの停止を発表せざるを得ませんでした。1930年にクーデターにより登場したジェツリオ・ヴァルガスは第二次世界大戦の暗雲が世界を覆う中、1891年に米国憲法を模倣して制定された憲法を排し、政党を解散するなどし、独裁体制を敷きます。

戦後の輸入代替工業化時代
第二次世界大戦後のブラジルは戦時中に蓄えた外貨をもとに貿易に関する規制を撤廃します。しかし、当時のブラジルの通貨、クルセイロ(Cr$)が経済の実勢より割高に設定された為(当時は固定相場制)、輸出の不振を招き貿易収支が悪化しました。ブラジル政府はそこで通貨を切り下げるのではく輸入ライセンス制度による輸入の抑制に踏み切り、石油や工作機械など経済政策上優先順位の高い商品だけ輸入を許し、消費財は輸入できないようにしました。これによりブラジルの製造業がはじめてテイク・オフしたわけです。ブラジル政府はこれを見てブラジル経済の構造をこれまでの第一次産業中心の経済から工業中心の経済に移行することを目標にします。このように為替レートや輸入ライセンス制度により国内に製造業を根付かせるやり方を「輸入代替工業化」と呼びます。このやり方の問題点は輸出の不振から貿易収支の悪化を招くことです。このためブラジルは戦略的に重要な輸入品目とそれ以外の品目では違った為替レートを適用するなど、苦しまぎれの政策を始めます。

軍事政権下での経済
1964年のクーデターでブラジルは軍政下に置かれます。軍事政権は為替制度の簡素化、インフレを加味した定期的な為替相場の切り下げ、直接投資の奨励、外資の誘致、輸出の奨励などを打ち出します。これらが功を奏して1968年から1973年までは年率平均11.1%という高度成長の時代が到来します。工業セクターは年率平均13.1%で成長し、鉄鋼、セメント、発電、自動車、耐久消費財などの産業が大きく開花しました。

オイルショック
軍事政権下でのブラジルは確かに急成長を遂げ、加工品、原材料などの輸出も好調でしたが、それにも増して輸入が急増しました。貿易収支は悪化を辿ります。この帳尻を合わせたのが海外投資家からの資本投資でした。1973年のオイル・ショックの際には石油の輸入価格が高騰し、貿易収支は一挙に悪化しました。ブラジルは過大評価されていたクルセイロを切り下げるのではなく、輸入代替工業化を一層押し進める事でこの難局を乗り切ろうとします。鉄工所やアルミ精錬工場、化学プラントなどを次々に作り、これらの商品を国内で自給できる比率を高めました。この政策は短期的には成功でした。実際、1974年から1980年までのブラジルのGDP成長率は平均して6.9%であり、これはオイル・ショックに世界中が苦しんでいるときの成績としては上出来の数字です。しかし、経常赤字は1973年の17億ドルから1980年には128億ドルまで膨張しました。1979年のイラン革命による第二次オイル・ショックが引き起こした世界的なインフレで世界の金利水準は大幅に引き上げられ、借金の借り換えのコストの急増を招きました。

失われた10年
オイル・ショック後に世界を襲った不景気でブラジルの経済も「失われた10年」と呼ばれる長いスランプに陥ります。1981年から1992年までブラジルのGDP成長率は平均して1.4%にとどまりました。また1985年に軍政から民政に移行した頃から狂乱インフレが起こり、ブラジル政府は価格凍結、賃金の凍結、住宅ローンや家賃の凍結などの極端な改革を断行します。これらの改革で一時はインフレが押さえ込まれたかに見えたのですが、暫くするとまたインフレがぶり返しました。

コロル大統領の登場
軍政後最初の公選により大統領に選ばれたコロルは規制緩和や対外貿易の振興、政府支出の抑制など、先進国受けする一連の政策を掲げて経済の建て直しに乗り出しました。しかし、1992年には汚職疑惑から大統領を罷免されてしまいます。その後を継いだフランコ政権は暫定政権ということもあり実効ある成果は上げられませんでした。

カルドソ政権
しかしフランコ政権の良かった点は財務相にブラジルきってのインテリで知られるカルドソを起用した点です。カルドソはレアル・プランと呼ばれる経済安定化計画を発表します。その骨子は:

1.議会により均衡財政が義務付けられること
2.賃金、税金、金融資産などをインデックス(指標)化すること
3.ブラジル・リアル(R$)の導入

などです。均衡財政が義務付けられたことは公的部門のインフレ期待を駆逐する効果を上げました。インデックス化はいろいろな財やサービス間の相対価格を適正な水準に固定することを助けました。それらが定着した後、新通貨が導入されたわけです。その後、カルドソは1995年には大統領に就任しこの経済改革を継続します。

ルラ大統領の時代
2002年の大統領選挙では貧富の差を縮めることを公約した労働者党のルラ党首が勝利し海外の投資家は折角軌道に乗ったブラジルの経済がまた悪い方向へ向き始めるのではという懸念を抱きました。しかしルラ大統領はカルドソ政権の残した手堅い経済運営のやり方を注意深く踏襲し、現在に至っています。

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