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2009年4月5日日曜日

ダン・ケイス



昔からいつか適切な時期が来たとき、是非書きたいと思って温めてきた事柄があります。
それはダン・ケイスのことです。
ダン・ケイスは僕が昔、勤めていたH&Qという投資銀行のCEOだった人です。
彼は2002年に44歳の若さで脳腫瘍で他界しました。
彼が死んだとき、(これでシリコンバレーやハイテク株にはもうなにも未練は無いな)と思いました。
それ以来、兎に角、自分の記憶を封印し、全く新しいことをやりたい、、、そんな風に考えてきたのです。
ドットコム・バブルが弾けてこのかた、シリコンバレーにはこれといって見るべきものがありませんでした。長い冬の時代だったわけです。
しかし、その冬の時代がいよいよ終わり、新しい活動的な時代が始まる、、、そういう蠢動を最近は強く感じます。なぜそう感じるのかについては別の機会に譲りますが、ひとことで言えばデジタル・コンテンツの消費量がここへきて等比級数的に伸びはじめていることと、その消費のされ方が複数のプラットフォームやデータベースを横断的にストラドルする、極めて難易度の高い利用方法になりつつあり、それが将来のシリコン消費やデータベース・マネージメントに対する負荷を極限にまで増大させることを感じるからです。
話をダン・ケイスに戻します。
ダンはプリンストン大学からロード奨学金を受けてオックスフォードに進んだ秀才です。H&Qの創業者、ビル・ハンブレクトが母校の教授に「門下の生徒の中から、一番デキる奴を紹介してよ」と頼んだ結果、紹介されたのがダンでした。
ビル・ハンブレクト本人も極めて優れた企業発掘能力を持った経営者でした。彼の手がけた企業が世界最初のバイオテクノロジーのIPOであるジェネンテック、世界最初のパソコンのIPOであるアップル、世界最初のインターネットのIPOであるネットスケープなど錚々たる案件であったことからもビルが人並み外れた才能を持っていたことが察せられます。
しかしH&Qは引き受けた会社のひとつ、ミニスクライブが製品の納品が間に合わず段ボールにレンガを詰めて出荷してしまった事件で引き受け責任を問われ株主訴訟に敗訴して倒産の危機に瀕します。
このときビルは「ダンにやらせよう!」と決心し、H&Qの立て直しをまだ30代だったダンに任せます。
90年代の初頭にこのミニスクライブ事件の顛末を新聞で読んだ僕は当時担当していたアメリカの顧客に「H&Qというのはトンマな証券会社ですね」と幾人かに話しました。
「お前はバカだな。H&Qという会社がぜんぜんわかっていないな。おまえさんの勤める会社が潰れたっておれはぜんぜんヘッチャラだけど、H&Qが潰れるのは本当に惜しい!」異口同音にそう言われました。(当時ヘッジファンドを経営していたジム・クレーマーもそう僕に言ったひとりです。)
(これほど顧客に惜しまれる会社って、、、一体どんなところなんだろう?)
僕の好奇心というか、ジェラシーはかきたてられました。その日から、若し次に転職するならあの会社にしようと心に決めたのです。
H&Qに実際に転職し、ダンという人間に接してみて感心したことは、明らかに天才的に頭が切れる人なのに、そういうことはこれっぽっちも顧客や社員の前では出さないという点です。しかも幹部社員だけでなく、アシスタントや用務員のおじさんまで、会社の全員の名前をちゃんと覚えていて、アシスタントの女の子に対しても「どうすれば良くなると思う?」と一生懸命相手の意見を聞いていました。
クリスマスには奥さんのステーシーと2人の子供と一緒に撮った写真のクリスマス・カードが届きます。必ず「去年はどうもありがとう。ところでこの前話したあの件だけど、僕は未だ思案中だから、こんど一緒に話そう!」などという具体的なメッセージが自筆で書き添えられていました。
ダンが脳腫瘍に侵されていて、寿命はあと2年も無いということが判明したのはちょうどドットコム・バブルが弾けた頃でした。弟のスティーブ・ケイスはAOLの社長だったのですが、タイム・ワーナーとの合併の後、AOLタイム・ワーナーの株価が低迷した際、スティーブはAOLタイム・ワーナーから追い出されました。悪い時に悪いことが重なるというのはこのことです。
ダンは腫瘍を除去する大手術のために頭を丸坊主にしました。上の写真は彼が最後に出席した2002年のH&Qテクノロジー・カンファレンスで壇上で抱き合うケイス兄弟を写したものです。
闘病生活最後のダンは「アタマの神経が過敏で風が吹くだけでも痛いんだ」と言ってヨレヨレの柔らかい野球帽をかぶってトレーディング・フロアに現れるとすぐに社員の輪ができ、女子社員はうしろでシクシク泣いていました。
下のレターはそのダン・ケイスが97年のH&Qのアニュアル・レポートの中でリタイアするビル・ハンブレクトについて語ったものです:

ビル・ハンブレクトに関する個人的な思い出

1979年の夏にビル・ハンブレクトに雇われてH&Qの調査部で働き始めたのがビル・ハンブレクトと私の関係のはじまりである。

私はファイナンスの分野に興味がある一方で経営戦略にも関心があり、さらにアントレプレナー(起業家)達と仕事をしたいとも考えていた。まさかひとつの職場でそうした私の移り気な興味が全部満たされるとは想像すらしなかった。H&Qではそのような私の夢が全て同時に叶うとわかったときには痛快きわまりないと思った。だから仕事をやらされているという気はぜんぜんしなかった。

H&Qでは私はすぐにこれが私の天職だと直感した。これこそ私が帰属すべき唯一の組織であり、とにかく一生懸命良い仕事をして学びたいと思った。こうした私の体験は私だけのものではなく、H&Qに働く同僚の多くが持っていた共通の感情だと思う。その体験はきわめてパワフルで、自己形成に大きな影響を与えた。こうした共通認識はH&Qという組織が大きくなっても、また以前とは違った経営環境にわが社が置かれた場合も常にわが社が失うことのない精神だと思う。そしてこの精神はわが社の社員を通じて顧客に届いてほしいと思う。

ビルから私が学んだことは多い。そしてビルと仕事をすることを通じて出会えた数々の才能に満ちた人たちからも多くのことを学んだ。

「失敗を恐れてはいけない。失敗する恐怖に打ち克ったものだけが成功する自由を手に入れるのだ。」ビルはそう教えてくれた。

「アントレプレナーの精神を信じなさい。そして変化を恐れてはいけない。」こう私に教えてくれたのもビルだ。

「ディールの質は案件の規模では測れない。それからそのディールの真価は長い年月を経た後で振り返ったとき、はじめて誰の目にもあきらかになるのだ。」ビルはそう口癖のように説いた。

「人と違ったことをやるというのはアドバンテージだ。」「お前が信じた人間やこれはいけると思った新市場や企業にはアグレッシブに賭けろ。その代わりバランスシートには頑固なまでに保守的でないと駄目だ。」ビルはそうアドバイスした。

ビル・ハンブレクトは我々H&Qの社員にとって恩師であり、よき助言者であり、友人であり、そして生粋のインベスターだった。ビルがわが社をリタイアした後もこの関係が変わらないことを望む。

(ダン・ケイス 出典:1997年のH&Qアニュアル・レポート)

2008年12月29日月曜日

1933年のウォール・ストリート(その3)


4月18日にルーズベルトはホワイトハウスで閣議を開いた。その議題は来る国際金融経済会議に備えるための準備ということだった。ハル国務長官、ウッディン財務長官、「全能の神」モーリー、そして金融界からはダグラス、ウォーバーグ、ファイスらが召集を受けた。ところが会議が始まってみるとルーズベルト大統領が閣議招集した意図は別のところにあることがわかった。大統領はモーリーにトーマス・アメンドメント(=農業調整法案)が下院を通過するように工作するよう指示した。そして集まった閣僚たちに向き直ると「わが国は金本位制から降りることにした」と宣言した。そして「この仕事はチョッと褒めてもらえるに値するとは思わないかい?」と言った。

閣僚たちはルーズベルトを称えるどころかこの「爆弾発言」に驚いた。金融界のアドバイザー達はルーズベルトに「そんなに軽々しく国家の通貨の健全性を危険に晒すような真似をしてはいけない」と延々2時間に渡ってインフレの怖さを講義する羽目になった。最後にはドイツで1923年に起きたハイパー・インフレーションの例を持ち出して経済が大混乱に陥りかねないことを指摘した。アドバイザー達はドイツの労働者の昼飯代が一日で60万マルクから次の日には150万マルクに暴騰した例などを懇々と説明した。ルーズベルトは閣僚たちの狼狽振りを見て内心愉快になったが、閣僚達にはクールに振る舞い、金本位制離脱の考えに揺るぎは無いことを示した。その夜、閣議からの帰り道でダグラスはウォーバーグに「これで西欧文明もオシマイだ」と嘆いた。

ひとたびアメリカが金本位制度を離脱すると発表されたらニューヨーク株式市場の反応はすさまじかった。マーケットは荒っぽい立会いの中を急に値を切り上げて行ったのである。これはある意味、理屈に適っている。なぜならドルの価値が安くなるわけだから、減価する紙幣を避け、なるべく早く別の資産にシフトする必要が出るからだ。それにしても奇異だったのはウォール街からは純粋な経済理論の見地からの金本位制離脱に対する反対や危惧の声はぜんぜん聞かれなかった点である。ウィギンスやミッチェルといった大物のバンカー達は長年の恐慌と金融パニックで完全に自信喪失しており、沈黙を守った。

さらにも驚いたことに『ウォール街23番地』が「私は大統領の取った金本位制離脱の決断を支持する」という署名入りの声明を出した。もちろん『ウォール街23番地』とはJ・ピアポント・モルガンのことである。

「『ウォール街23番地』からのご神託が下ったぞ!」

これにより金本位制離脱の正当性は即座に受け入れられた。

こうしてドルは「投機の対象」に成り下がった。ルーズベルトの金本位制離脱宣言の直後、ドルは88 1/2セントに下落し、6月までには83セントにまで下がった。肝心の国内の穀物価格については若干価格が上昇した。これを見て農家は安堵した。

しかしイギリスとフランスの通貨当局はショックを受けた。英国はドル安が世界の貿易を鈍化させることを懸念した。フランスはアメリカの後を追って金本位制を離脱することは避けられないと考えた。ルーズベルトの最大の関心事は内政、それも農業部門であり、国際協調など二の次にしか考えていなかった。そうは言うものの、6月12日から7月23日までの予定で既に日取りが決まっていたロンドンのケンジントン地質学博物館における国際金融経済会議(上の諷刺画参照)をすっぽかすことだけは思いとどまった。

(『Once in Golconda』 John Brooks Chapter Seven: Gold Standard on the Booze P154 – 157)

2008年12月24日水曜日

1933年のウォール・ストリート (その2)


(例によって古典、『むかし、ゴルコンダにて』の抄訳を続けます。前回はフランクリン・D・ルーズベルトが大統領に就任したとたん、ニューヨーク株式市場が猛然とラリーし、アッという間に2倍になったエピソードを紹介しました。今日はその続きです。)

   ■   ■   ■

しかしこの熱狂的な期間にウォール街では不思議な現象が起こり始めた。最初はそれに気がつく者は少なかったが、最後には深刻な事態になった。その現象とはウォール街の主人公であるはずの「マネー」、つまりドルそのものの価値が揺らぎ始めたことだ。

それまでドルはきっちりと固定されてきた。銀行界ではそれが当然だと思われてきたし、宇宙の法則のように不変なものとして受け入れられてきたのだ。ゴールド・スタンダード、つまり金本位制度である。この規則では金1オンスは$20.67と定められていた。

しかしこの大原則が停止されたためにドルは投機家たちによってまるで卑しい株式と同等にオモチャにされる羽目に陥るのである。

ドルが下がり始めたのはルーズベルトが大統領に就任した2日目からである。この日、ルーズベルトは臨時措置としてゴールドの輸出を止めるとともにゴールドの蓄蔵をやめると宣言した。ルーズベルト政権は「これはあくまでも臨時の措置である」とし、とりわけ「臨時」という言葉を強調した。

この発表があった日はちょうどルーズベルト大統領が臨時「銀行休業日」宣言をした期間中であったから、ウォール街の銀行家や証券業者は自分の身の上を案じる方が先で、ゴールドの輸出停止など誰も気に止めなかった。だいいち「銀行休業日」さえ終わればゴールドの禁輸措置も当然解除されるものだと皆が信じて疑わなかった。ビル・ウッディン財務長官も「金本位制度が停止されたなどと言わないでくれ。全く馬鹿げているし大衆の誤解を招きかねない。」とコメントしたほどだ。

ウォール街の関係者やルーズベルトの側近が見誤った事はルーズベルト大統領が金融という命題に関して極めて凝り固まった考え方をする人間だという点である。ルーズベルトの側近たちによれば彼は金融知識ゼロのところへ持ってきて、経済学者などの振り回す理論より、自分のお金に対する直感の方が正しいと確信していたという。ルーズベルトは財政の問題をまるでカジュアルでいささか滑稽なものだと捉え、ときには退屈きわまりないものだと遠ざけるかと思えば、ときにはその不思議なメカニズムに熱中したりした。

ルーズベルトの取り巻きのアドバイザー達も玉石混交の様相を呈していた。財務長官のウッディンはもともとペンシルバニアの事業家でとっつきやすいが切れる男であり、経済に関する知識は正統派だった。予算委員長のルイス・ダグラスは頑固な健全財政主義者だった。国務補佐官のレイモンド・モーリーはコロンビア大学の公法の元教授であり、ルーズベルトの選挙参謀を務めた男だ。そして人前にめったに姿を現さない謎めいた人物、ジョージ・フレデリック・ウォーレンが居る。彼はコーネル大学の農業経済学の教授でありコモディティー価格とドルの価値について独特の考え方を持っていた。

最後にウォール街の代表としてジミー・ウォーバーグがルーズベルトのアドバイザーとなった。ジミー・ウォーバーグはインターナショナル・アクセプタンス銀行の頭取だったがルーズベルトから財務次官のポストを与えられた。ウォーバーグは個人的な理由からその任命を辞退し、その代わり「無給、無冠のホワイトハウスの金融アドバイザー」としてルーズベルトの一行が贔屓にしたカールトン・ホテルに引越した。

4月になるとアメリカ西部から不気味な雷鳴が届くようになった。それはつまりアメリカの農民たちが暴動を起こす寸前のような一触即発の状況になったということである。農作物の価格は1926年頃の水準の4割程度まで落ち込み、その結果、農民がその年の収穫を全部売ることに成功したとしてもローンの払いを返すことは不可能になったのだ。このため大勢の農民が家を追われ、アイオワではローンの支払い不履行の差し押さえを支持した裁判長が農民達からリンチに遭いかける騒ぎに発展した。

議会ではインフレ政策を推進せよという議論が熱を帯び、オクラホマ州のエルマー・トーマス上院議員は「農業調整法」の改正により大統領が自由な判断でどしどしドル紙幣を刷れるようにすべきだという議員立法を提出した。

ウォール街の関係者にしてみればそれは財務上の無政府状態を意味する。この法案の可決はゴールド・スタンダードの死を意味していた。

(『Once in Golconda』 John Brooks Chapter Seven: Gold Standard on the Booze P150 – 154)

2008年11月17日月曜日

1933年のウォール・ストリート

大統領就任式の前日、トーマス・ラモントは旧友のフランクリン・D・ルーズベルトに電話した。ラモントの電話の狙いは金融危機に関して余り性急な政策に走らないようにルーズベルトに嘆願することだった。その夜は金曜日でニューヨークに本社を構える主要銀行の多くはなんとか翌日の「はんどん」を無事やりすごすことが出来るのではないかと願っていた。

月曜まで持ちこたえられれば、、、、新大統領の就任演説に力を得た国民は安心し、取り付けの危機は回避できる、、、。

しかしルーズベルトは当然のこととしてこのアドバイスを無視した。彼が大統領になって最初にしたのは4日間に渡る「銀行休業日」宣言だ。実際には銀行は4日間ではなく8日間休業する羽目になった。ラモントの期待していたのはルーズベルトと、彼がこれから発表するであろう「ニュー・ディール」政策への期待で何とか市場への信頼が戻ることだった。いささか奇妙だったのは「ニュー・ディール」政策の立案者たちは駄目もとでそれを考案したにもかかわらず、ウォール街は早くも「ニュー・ディール」に高い期待を寄せていた点である。

ウォール街は兎に角、いまの苦境からひっぱり上げてくれる救世主を求めていた。ここから出してくれるのなら、その救世主がどんな主義・主張をもっていようがそんなことにはこだわらないという気分になっていたのである。この盲信的な態度はルーズベルト政権の「称賛の100日間(Celebrated first one hundred days)」の間中続いた。そしてこの期間に新政権はスリルに満ちた前例の無い大胆な政策を次々打ち出したのである。工業復興法案、農業調整法案、テネシー川流域再開発局、連邦持ち家法案、農家信用法案など、様々な法案が下院に送られた。さらに銀行と証券の分離を定めた証券取引法もこのときに成立している。神聖なるモルガン銀行はこの法律によって銀行と証券に分断されるわけだが、通常ならウォール街の猛反発を喰らいそうなそんな法律までもが歓迎されたのである。

8日間の休場の後、3月15日にニューヨーク証券取引所がリチャード・ウィットニーの市場再開の宣言とともに立会いを開始した際には大引けまでにマーケットは15%も暴騰した。こんな強気相場はブームの真っ只中だった1920年代を通じても一度も無かったことである。場立ち連中は早くも「ルーズベルト相場」ということを言い始めた。この「ルーズベルト相場」というのはもちろん、1920年代の「クーリッジ相場」をもじった表現なのだが、その後は週をおうごとに1920年代のブーム時代が戻ってきたような共通点が幾つも至現した。4月20日には過去3年で最高の出来高となり、ティッカーは大幅に遅延した。証券会社は慌てて秘書や伝令や事務方の社員を再雇用し、ウォール街は再びブームを取り戻したように見えた。この伝染しやすい楽観論の出所はルーズベルト新大統領に他ならない。そのルーズベルト大統領は側近のひとりの言葉を借りれば「お伽話の王子様のように、一体、怯えるというしぐさはどうすればよいのか知らないと言わんばかりに自信に満ちていた。」

こうして7月までには株式市場は就任演説の日から2倍に上昇していたのである。4ヶ月間での上昇率という点では勿論、これは新記録である。


(『Once in Golconda』 Chapter Seven: Gold Standard on the Booze P148-150)


2008年11月5日水曜日

100日のハネムーン Celebrated first one hundred days of FDR.

いまこれを書いている時点ではオバマ候補が選挙人(Electoral vote)207を獲得、マッケイン候補の129人を大きく引き離しています。

まだオバマ勝利と結論付けるのは気が早いかも知れませんが、今、僕の考えていることを簡単にしたためます。

先ず両候補がどんな経済政策を採るかについては選挙活動中のスピーチではどちらも具体性に欠けていたので判断つきかねる部分が多いです。ただ根っこのところで両候補の価値観の相違を言えば:

マッケイン候補 = 小さな政府、責任感ある政府の信奉者
オバマ候補 = 富の再分配による公平な社会の実現

がコアのメッセージだったと思います。

オバマ候補の考え方は「財政散布的」な方へ傾倒しています。そのことと、彼が民主党候補であること、さらにアメリカ経済が苦境に立っているときに大統領になることなどからオバマの登場をフランクリン・D・ルーズベルト大統領と比較する論者も多いです。

ウォール街としてはすぐにでもオバマ次期大統領(?)に動き始めて欲しいと願うところかも知れませんが、これはオバマ候補の性格(用意周到でぬかりがありません)を考えると期待薄です。従って大統領就任まではマーケットが期待するような具体的なシグナルは発せられないと思います。

次にルーズベルトが大統領に就任したとき(1932年)には「最初の100日」と呼ばれる、ウォール街と大統領とのハネムーン期間がありました。この間にルーズベルトは議会に働きかけ:

National Industrial Recovery Act
Agricultural Adjustment Act
Tennessee Valley Authority
Federal Home Owners Act
Banking Act

などを次々に繰り出します。株高に沸くウォール街はこの強気相場に「ルーズベルト・マーケット」という名前をつけます。

しかしルーズベルトは主にデフレによる農産物価格の急落による農家の窮状を救うため、ドルを減価させ、リフレーションを起こすことをその経済政策の主眼に置きました。金本位制度をやめたのもそれが原因です。市場参加者はドルの健全性が損なわれる(=つまりインフレになる)懸念から合理的に考えてキャッシュより株にしておいた方が良いという判断で株を買い上がったというわけです。

ルーズベルトはドル安誘導には成功しますが、ドル安は必ずしも農産物価格の梃入れには効果を発揮しませんでした。

振り返ってみれば当時のルーズベルトの処方は必ずしも経済理論にそぐわない、ドグマ的なものも少なからず含まれていた気がします。それでもウォール街は「現状を救ってくれる救世主が登場するのなら、やり方が間違っていようと構わない」という、完全に身を委ねる、自信喪失ムードが蔓延していたといいます。

2008年11月3日月曜日

1929年のウォール・ストリート その4

コバーンはその日、ウォール街の巨頭とランチのアポイントメントがあった。それはエドガー・スペアーである。スペアーはドイツ系ユダヤ人の経営する投資銀行の中でも最古かつ最も貴族的な会社のパートナーだった。彼と彼の妻はワシントン・スクエアの北側に面した復古ギリシャ調スタイルの家に住んでおり、その屋敷はエレガントに装飾されていた。

昼食は中年の英国人の執事の指示の下で英国人のウエイターによって運ばれてきたのだが、スペアー婦人が最近出版した詩集の話をしているときに何か異変が起きた。厨房の方で「ドシン」という音がしたかと思うと誰かが声を荒げているのが聞こえてきた。ドアのノブがゆっくり回されたと思うと少しだけの隙間の後ろに数人が詰め寄っているような雰囲気が感じられた。執事とウエイターが子羊のメインコースをサーブして下がった後、女の声で、「さあ!行って伝えなさい、さもないと、、、」というのが聞こえた。すると突然、ドアが開き、紅潮した執事が押し出されるようによろけ出てくると、スペアー氏に「ちょっと、よろしいですか」と小声で話しかけた。スペアー氏は瞬間、驚きの表情を見せ、「少し外します」と言って部屋を出た。ほどなくスペアー氏はダイニング・ルームに戻ったが、「失礼おばいたしました。厨房にティッカー・マシンがあるのですが、使用人達も実は相場をやっておりまして、、、」

結局、その日スペアー氏は賓客をダイニング・テーブルに置き去りにしたまま戻らなかった。彼のメインコースにも手がつけられないままであり、スペアー婦人は混乱と取り繕いの中でランチを終えるはめになった。このランチは大失敗であり、スペアー家の社交界における大恥であり、家訓破りの大珍事となった。コバーンは完全に取り乱したスペアー氏の様子を見て、大暴落の何たるかについてだんだんその意味するところが身に沁みたのである。

『Once in Golconda』 John Brooks Chapter 6: Enter the White Knight

1929年のウォール・ストリート その3

大暴落の初日、つまり10月24日は『暗黒の木曜日』と後で名付けられるわけだが、その日、英国のジャーナリスト、クロード・コバーンはグリニッジビレッジのラファイエット・ホテルに滞在していて奇妙な現象に気がついた。ホテルのカフェで大理石のテーブルについて朝食をとっていたら、同席したアメリカ人が席を立っては隅のティッカー・マシンのところへ歩み寄っていた。まだ寄り付き前だから何も株価は流れてこない筈なのだけど、その男はそわそわしていた。コバーンは異邦人なのでこの様子を第三者の立場から客観的に観察することが出来たわけだが、これだけでもその日が何か特別な日になることがたちどころに察知できた。

その日の遅い午前中に取引所の方に向けてそぞろ歩きを始めたコバーンは奇妙なことに気付いた。それは自分の向かっているのと同じ方向へ無言の群集が怒涛のような人の流れを自然に作っていたことである。コバーンがウォール街に辿り着くと、そこには既に凄い人だかりが出来ていた。しかし誰も声を荒げようとはせず、つぶやきにも似たヒソヒソした会話が聞こえる程度だった。時折、誰かがヒステリーのような高笑いをするのがシュールリアリスティックに聞こえた。

この日の昼ごろ取引所の向かいのサブトレジャリー(フェデラル・ホールのこと)の前で取られた写真を見ると階段に所狭しと並んだ群衆が、なにかの記念撮影のように皆、真正面の取引所の方を向いて虚ろなまなざしを向けている様子がわかる。その表情からは興奮や癇癪や憤懣は看て取れない。そこにあるのは釣上げられた魚が横たわったまま投げる視線だ。

『Once in Golconda』 John Brooks Chapter 6: Enter the White Knight

1929年のウォール・ストリート その2

ウォール街の保守的な一派の間でも「繁栄は永遠に続く」というこれまでのコンセンサスに加えて、「暴落が間近に迫っている」という新しい考え方がほんの数日間のうちに根をおろした。もちろん、バブソンの考え方は「新しい時代がはじまった」とするイエール大学のアーヴィング・フィッシャー教授らによって即座に否定された。しかしそれから数日もしないうちに「タイムズ」のノイスのコラムでは「悲惨で、経済を壊しかねない暴落の可能性」が再び論じられた。その「タイムズ」の記事では現在の状況と1907年の状況が、ある種、共通点があるとされながらも、「今回は連邦準備制度という新しい機構があるから大丈夫だし、投資信託の存在も市場の安定化につながる」と結論付けている。その一方でマーケットは神経質な動きに終始し、9月24日にはまたまた「原因不明の」急落を経験した。

10月は悲観論が台頭する中、平穏に始まった。不吉なことに信用取引残高はどんどん増加を続けた。これは新しい小口投資家が引き続き参入していることを意味していた。参加者が増えているのに、なぜ株価は上がらないのか?いや、たぶん信用取引は空売りの増加を示唆しているのでは?、、、いろいろな理由付けが飛び交った。これに加えて「空売りファンドの組成がはじまった」とか「ジェシー・リバモアが起訴された」とかいろんな根も葉もない噂が飛び交った。一方、市場はまた平静を取り戻し、10月10日頃には9月の中頃の水準まで戻した。10月15日にはチャールズ・ミッチェルがドイツからニューヨークへ向かう客船の中でインタビューに応じ(当時はこういう演出がとりわけウケた)、「市場は一般的に健全だ」と発言した。一方、アーヴィング・フィッシャーはその後、後世まで語り継がれることになる「市場は永続的な高原の状態を維持するだろう」という発言をした。
これらの発言は必ずしも市場参加者に素直に受け止められたというわけではない。このときまでにはミッチェルやフィッシャーの万年強気の発言に投資家は食傷気味だったという点が指摘できる。それでも市場はこれらの発言の後、暫く持ちこたえた。しかし19日には土曜日立会いでは過去2番目の大商いを伴いながら2時間に渡る大下げを演じた。

翌週の月曜日の立会いが始まる頃には市場が典型的な調整局面に入っていることは誰の眼にも明らかだった。マージン・コールが発生し、それが手じまい売りを誘った。その手じまい売りが更にマージン・コールを誘発するという悪循環である。「買い支えオペレーションが始まる!」という希望的な観測が取沙汰されはじめた。それはちょうど1907年の暴落のときにウォール街の巨頭たちが実施した買い支えと同じ類のものになるという観測である。「タイムズ」のノイスは市況欄で「ウォール街関係者はようやく現実を直視しはじめた。そしてこのところ流行していた新しいキャッチフレーズや政府からの救済の可能性を諦め始めた。」この意味するところは明快である。つまり株式市場に正気が戻り始めたわけだ。「新しい時代」は過去のものとなった。証券会社の店頭は以前ほど混まなくなった。フィッシャーは「投機家がふるい落とされたことは良いことだ」と発言し、ミッチェルも「市場は下げすぎている」と発言した。その日は更にマーケットは下げ、大商いでティッカー・テープは1時間45分程度ほど遅延した。しかし翌日、つまり10月22日には強い反発があった。

こうしていよいよ10月23日を迎えるのである。その日のニューヨークは穏やかな秋晴れの日だった。しかし米国中西部では降雪と嵐で惨めな天気だった。このお天気の気まぐれはちょうど「バトル・オブ・ヘイスティングス」のまぶしい日照が歴史を狂わせたのと同じようなちょっとしたエピソードを歴史の片隅に書き加えることになる。ニューヨークで株式が急落しはじめたとき、中西部での嵐が電線を切断したため多くの地域で電信が途絶えた。ウォール街の情報が入らなくなると全米各地では伝聞や憶測に基づいて、あてずっぽうの情報がひとりあるきしはじめた。投資家のパニックの兆候が現れると、それはあっという間に広がった。この日の637.5万株という出来高は歴代第2位の多さである。下落した銘柄の中にはアダムス・エクスプレスの96ポイント安、コマーシャル・ソルベンツの70ポイント安、ゼネラル・エレクトリックの20ポイント安、オーティス・エレベーターの43ポイント安、ウエスチングハウスの35ポイント安などが含まれている。この日の下げのきっかけをつくるような悪材料は特に見当たらなかった。でもこの下げを「不可思議だ」という風に考える投資家はもう居なくなった。


『Once in Golconda』 John Brooks Chapter 5: Things Fall Apart P111-113

2008年11月2日日曜日

1929年のウォール・ストリート


1929年9月3日にNY市場は最高値を更新した。しかしその影ですでにかれこれもう3年近くも「隠密のベア・マーケット」が進行していたことは一般の大衆は気づかなかった。実はスローモーションの暴落は既にずっと前からはじまっていたことはそういう難しい相場環境の中でお金を損した投資家なら身をもって経験していたことだ。この日の高値がこの後、四半世紀も更新されないど天井だったと誰が気付いただろう?

9月3日と言えばレーバー・デイの週末の翌日であり、証券取引所の伝統としては、新しい、活動的な季節の始まる日である。それは証券マンにとっては「新年」にも匹敵する大事な日だ。この日のニューヨークは記録的な猛暑に見舞われたにもかかわらず、個人投資家はダウンタウンの証券会社の店頭に陣取るとどんどん売り買い注文を出した。蒸し風呂のような熱気に包まれてNY市場はエベレストの頂上を極めたのだ。

その翌日はとりたてて珍しくも無い下げ相場だった。「タイムズ」の市況欄ではウォール・ストリート番の敏腕記者であるアレキサンダー・ディナ・ノイスが次のように書いている:

先週の相場の上げピッチは余りにも早すぎるし、マネー・マーケット市場の状況に照らして行き過ぎが感じられる。このためカンカンの強気派の間でも(やりすぎだな)という感じを抱いた者が多かった。

その翌日、つまり9月5日、後日「バブソンの下げ」と語り継がれる奇妙な現象が起こった。マサチューセッツ州ウエルズレーの片田舎のフィナンシャル・アドバイザーでヤギ面をしたロジャー・バブソンという男がニュー・イングランド地方の投資家を集めた昼食会でひとつおぼえの講釈をぶっていた。「私は、去年、そして一昨年から繰り返している主張をもう一度強調したい。遅かれ早かれ、大暴落が来る!。」

バブソンの予言は皆から冷笑され、無視されてきた。いや、それどころか「あいつはチョッと頭がおかしい」とさえ思われていた。だが、この日はよほどニュースの無い日だったのだろう。なぜなら午後2時を回る頃にはバブソンのこの予言はダウジョーンズのニュース・ティッカーに乗って全米の証券会社の店頭に流されたからだ。驚いたことに株式市場はなんの躊躇も無く真っ逆さまに下落しはじめた。USスチールはこの日9ポイントも下がった。そればかりではない。ウエスチングハウスは7ポイント安、テレフォンは大引け前の怒涛のような売り物の中で6ポイント安した。引け前1時間の出来高は200万株にも達した。このバブソンのちっぽけな予言がこれだけの波紋を呼んだのはどう理屈をこねても説明が出来ない事である。でも事実としてはそれが起こってしまったのだ。

不思議なことに多くの投資家は一瞬のうちにバブソンのこの発言には「予言」に似たちからがあることを悟った。バブソンが「大暴落」という言葉を使うまではウォール街では「大暴落」という言葉を使うことはタブー視されていた。ところがバブソンがこの言葉を使ってからは誰もが当たり前のようにそれを口にし始めたのだ。

『Once in Golconda』John Brooks Chapter 5: Things Fall Apart P110-111.
(1920年代から30年代のウォール街を活写したジョン・ブルックスの美しくも哀しい古典、『むかしゴルコンダにて』を読み直しているところです。おふざけでチョッと翻訳してみました。)