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2009年11月23日月曜日

「マッカーサーの屈辱」とは、余りに歴史を知らない日本人

呆れた。
中田宏という人は横浜市長を務めた人らしいけど、歴史を知らないにもほどがある。産経ニュースの記事では彼はこう書いています:


戦後の写真で、マッカーサー元帥が腰に手をあてた体勢で昭和天皇と並んで写っているものがあり、日本人は米国に対して単なる屈辱を超える思いがあった。オバマ大統領が、それをも打ち消すような深い礼節を持って陛下に接してくれたことに対して、日本人は評価すべきだと思う。


この「屈辱的」会見で、実はマッカーサー元帥は大の昭和天皇ファンになり、「天皇制なんか廃してしまえ!」というアメリカ国内の轟々の批判に立ち向かって、天皇制擁護を貫いたのです。

マッカーサーは、(いま日本人の最後の心のよりどころを取り払っては日本人は内面から崩れてしまう)ということを強く悟った、最初のアメリカ人です。

それからマッカーサーは玉音放送の数日後に厚木飛行場に降り立ったのですが、そのとき未だ日本軍は武装解除していませんでした。ほんの一握りの米兵を連れて、降参したとはいえ敵の真ん中に下りて行った様を見て、「最後のライオン」と称されたウインストン・チャーチルは、「あれほど勇気のある男は居ない」と絶賛しました。

マッカーサーは日本が降伏文書に調印するまで横浜のグランドホテルのスイート・ルームを執務室として使うのですが、最初の朝食で「目玉焼き2つ」と注文したら、午後になっても注文した料理が出てこなかったのです。それで頭にきたマッカーサーが、「なんで出てくるのが遅いのだ!」と怒ったら、コックが「鶏がたまごを生まなかったので横浜中たまごを探し回ったけど、見つけられなかった」と釈明します。

マッカーサーはそれで日本の食糧事情の危機的な状況をすぐ察し、「アメリカ軍の食糧をすぐ日本に持ってこい!、本国からもありったけの食糧を日本に送れ!」と指示します。これはアメリカ議会の猛反発を食らいます。マッカーサーは議会に対して「兎に角、食糧を送ってくれ、もしそれができないのなら、また戦争がおこるから弾薬をよこせ」と二者択一を迫ったのです。

マッカーサーはもちろん終戦までは敵でしたけど、戦後はこのように日本にとっては恩人。もうそんな事すら忘れてしまったのですかねぇ。

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