☆ ☆ ☆

2009年11月16日月曜日

シルクロード現象

シルクロードの定義にはいろいろな意見がありますが、おおまかにはローマ帝国の時代に出来た、シリアのアンティオキアと中国を結ぶ複数の交易ルートのことを指します。

それは自然発生的で、ひとつの国の独力でシルクロードにおける活動の全部がコントロールされたのではなく、多くの国の複雑な利害や人々の営みが絡み合った結果として出来上がったパイプでした。

その最盛期にはかなりしっかりとした交易の手順(プロトコル)が順守され、専門化した役務提供者が良く組織されたサービスを提供したと言われます。

しかしシルクロードのツキはエジプトにクレオパトラが登場した頃から落ちはじめます。ローマ帝国は肥沃なナイル川流域を後背地に持つアレキサンドリアを交易の重要パートナーとし、シルクロードへのゲートウェイであったティルスの地位は低下しました。

さらに陸路で紅海に出て、そこからアジアを目指す航海ルートが発達し、ローマ人がモンスーンの季節風を巧みに航海に利用する術を体得してからは海路による貿易のアドバンテージがシルクロードの陸路より遥かに勝ることがわかったのです。

言いかえれば、よりコストの安い、より速い、より安全な、よりスケールの大きいルートが登場することでシルクロードは廃れたのです。

シルクロードによって生計を立てる人々からすれば、自分とは全然関係ない、遠いところで起きた変化(航海技術の発展、消費国の交易パートナーの変更など)が没落の直接の原因となりました。

ローマ帝国は言わば現在のアメリカのような一大消費国で、貿易収支は慢性的に赤字でした。また自分のところでは何も作らず、常にモノを外部からの供給に頼りました。主要交易パートナー都市をアレキサンドリアに移したのも、アレキサンドリアが穀物その他、あらゆる基礎的な財の供給能力に長けていたからです。この点で今の中国はアレキサンドリアに似ています。

一方、シルクロードでは商売が繁盛している間はその交易ルートにかかわる様々な国の人々に対する尊重や保護がありましたが、ビジネスが廃れるとともに自由、寛容の精神は失われました。すると交易は別の、より心地よい場所を求めて去って行ったのです。さらにシルクロードの低迷はその交易ルートの担い手たちのソーシャル・モビリティ(能力主義)も奪うことになりました。

以上のようなシルクロードの没落は歴史の一例に過ぎず、このような繁栄と没落のドラマは世界中で繰り返されてきました。つまりこの世の中で唯一不変のものは「世の中は変わり続ける」ということだけなのです。

0 件のコメント: